2015-09-28

葉桜の季節に君を想うということ




歌野晶午著「葉桜の季節に君を想うということ」


最後2行の衝撃で、前評判に漏れず自分も2度読みした、乾くるみ著「イニシエーション・ラブ」

友達と「これは映像化は不可能だね~」なんて話してたら、ちょっと前に映画化されましたね。
どんな形でアレを映像化してるのか気になるところですが、堤幸彦演出が苦手なので未見です。

そんなタイミングもあり、この機会に別の著作も読んでみるかと「セカンド・ラブ」を手に取って、あまりの後味の悪さに幻滅し・・・。
という話の流れから知人に教えてもらった、歌野晶午著「葉桜の季節に君を想うということ」


「何でもやってやろう屋」を自称する元私立探偵・成瀬将虎は、同じフィットネスクラブに通う愛子から悪質な霊感商法の調査を依頼された。
そんな折、自殺を図ろうとしているところを救った麻宮さくらと運命の出会いを果たして―。(Amazonより)


(※以下ネタバレ含みます)


序盤から中盤にかけて、微妙にコミカルな主人公のキャラクターや語り口が自分に合わず、うまく物語に乗っていけませんでした。

また3つの時系列が前後するので、1つの話に入っていくとまた違う時系列の話が始まったりして、気持ちを戻すのが少しストレスでした。
一気読みすればついていけそうだけど、間が空くことで集中力が切れてしまったということもあるかも。


そんな気持ちを繋ぎとめてくれたのは、別れた妻と娘を想う安藤士郎とのエピソードと、加速する買い物癖による借金返済のために悪に手を染める古屋節子のエピソード。

前者は人情に訴えてくるキャラクターもあって馴染み易かったし、後者は一気にシリアス路線で罪を重ねる無限ループから抜け出せない中で自分を肯定する様は緊張感がありました。


ミステリーなので、どんなカタルシスがあるのかと構えて読むわけです。

読んでる段階では関連性が見えてこない3つの時系列(現在と数年前と探偵時代)が最後どのように絡んでくるのか、仮説を立てながら読み進めてたんですが・・・終盤は一気に読みました。

序盤から中盤にかけて馴染めなかった主人公のキャラクターですら布石になってたとは。
どこで勘違いしてたのだろうと、遡って答え合わせするように読んでみたりして。

見事にやられました。
ホント良く出来た小説ならではのミスリードを利用したトリックです。


これまた映像化は不可能です。

「イニシエーション・ラブ」が映画化されると聞いた時に、主観を取り入れれば映像可能かも・・・と考えたりしたんですが、こちらも同様の手法で映像化できなくはないです。
かなり無理あるので、やっぱり映像化として成立できないと思いますが。


そんな終盤で主人公が自身の人生論をとうとうと語るんですが、それが圧倒的バイタリティでもって超ポジティブ。

あまりにもバイタリティが強すぎて、うまく自分の中に取り入れられなかったんですが、それでも言ってることはとても共感できたし、なんか前向きな元気をもらいました。

あくまで人生論だけに関して共感したのであって、語り合う2人には全く共感できず。
むしろ嫌悪感でしたが、それもまた自分を正当化する犯罪者の心理なのかな・・・と思ったりして。

2015-09-22

通天閣



西加奈子著「通天閣」


いろいろありまして通院生活してました。

その病院の待ち時間が異常に長い。
8時半に受付してリハビリと診察が終わるのが14時みたいな・・・。

貴重な休日の半分は病院で過ごすような感じだったので、時間を持て余すのも勿体ないし、普段はなかなか時間の取れない読書などしてました。


西加奈子著「通天閣」

夢を失いつつ町工場で働く中年男と、恋人に見捨てられそうになりながらスナックで働く若い女。
ふたりは周りの喧騒をよそに、さらに追い込まれていく。
しかし、通天閣を舞台に起こった大騒動がふたりの運命を変えることに…。(Amazonより)


(※以下ネタバレ含みます)


直木賞受賞で話題の西加奈子。
著作は2作品しか読んだことなかったので、手に取ってみました。


なんというカタルシス・・・。
病院の待合ロビーで読んでたんですが、人目を気にしつつも我慢できず泣いてしまいました。

急いでトイレに駆け込み、顔を洗ってクールダウンし、改めて待合ロビーへ。
続きを読むとまた泣いてしまう・・・でも気になる・・・。
そしてページをめくり、またポロポロ泣いてトイレへ駆け込むという。


映画でも小説でもそうなんですが、ハリウッド大作のような非現実なストーリーはともかくとして、日常を描くような人間ドラマだと、主役っぽい人が主役の作品ってあまり惹かれません。

主役っぽい人というのは、普通にいるだけで光り輝いてるような人。
微妙に的外れではありますが、分かりやすく端的に言えばカッコ良いとかキレイとか、そういうことになるのかもしれません。

うまく言えないんですが、主役っぽい人にスポットライトを当てられても、なんかピンとこないんですよね。
ただでさえ光り輝いてるところに更に光を当てられても、光量が強すぎて飛んじゃうというか。

トムクルーズやキムタクに感情移入するのはただでさえ難しい。
仕事で苦労してたりとか、恋愛でもめてたりしても、ヴィジュアルとキャラ設定の組み合わせに無理があるので、どんどんリアリティが欠けていってしまう。
結果的に物語との距離もどんどん開いていってしまいます。


なので、主役っぽくないエトセトラな人にスポットライトを当てた物語が好きです。
自分自身もエトセトラな人なので、前途と違い感情移入もしやすいし、そこにスポットライトが当たるとなんか救われる。

そんなスポットライトの当て方もセンスなんですよね。
下手な当て方をすると、作為的に不幸をウリにするようなテレビ的な感じになってしまう。

今作のスポットライトの当て具合は絶妙です。


感情を表にうまく出せず、心の中でアレやコレやに毒づいて、変に見栄っ張りなところがあるから無駄にストレス感じて。

僕は今でこそ比較的協調性のある人になりましたが、なんかこの中年男に対して愛おしいぐらいに共感できるんですよね。
その殻を破れば世界は違ってみてるのになぁ・・・と、そんな展開を待ち焦がれるように読み進めました。

そして、そんな殻を被ることになる出来事が立て続けにラストで待ってます。
殻を被ったことに対する喜びと、そこに絡んでくるもう1人の主人公である若い女の子のエピソードによって、前途したように待合ロビーとトイレを往復することになりました。


クスクス笑えてポロポロ泣けて、ギュ~っと心臓を鷲掴みされるように苦しいのだけど、ス~っと救われる感じ。

ちょっと毛色は違うけど、石井裕也監督「川の底からこんにちは」を観た時のような、しっかりと重みのある爽快感でした。

西加奈子、恐るべし・・・。
この作家さんが大好きなのだと確信できる作品でした。

2015-09-12

Slipknot “Custer”

バケモノの子



細田守監督「バケモノの子」


(※以下ネタバレ含みます)


映画館で観終って家に帰り、自分の中での解釈がまとまったのはお風呂に入ってる時。

単純に“親子愛”みたいなシンプルなテーマではなく、そこに“成長”に伴うアレコレが絡んでくるので、消化不良を起こしてしまいました。

賛否が分かれるのも納得です。
詰め込み過ぎと感じなくはないですし、物語として冒険活劇みたいなエンターテイメントを期待すると、きっと物足りないだろうし難解だと思います。

とは言え、個人的には十分に見応えのある仕上がりでした。


相当リアルに描かれた人間界(渋谷)と、中国やモロッコをイメージさせるようなバケモノ界(渋天街)は、どちらも季節の移ろいと共に見事に描かれてました。

それぞれのキャラクターも良い。
気になる声優陣では役所広司は完璧でした。
俳優やタレントが声優をするのは、役者の顔がチラついて嫌いなんですが、チラついてもそれを塗りつぶすほどにバケモノ(熊徹)でした。

ジャッキーチェン(蛇拳)へのオマージュには不意打ちくらって笑っちゃったし、コミカルな要素もしっかりと効いてます。


宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」という作品があります。

異世界に迷い込んだ少女が、そこで生活しながら成長していく物語。
キャラクターや舞台設定などは魅力的で、人気が高いのも納得な作品ですが、個人的に“成長物語”という映画の軸になる大きなピースが最後まで腑に落ちませんでした。

要は、成長物語としての時間軸がショートカットすぎて、冒頭の千尋(主人公)と中盤以降の千尋の、人が変わったような急速な成長のギャップへの違和感を引き摺ってしまい、最後まで主人公に感情移入できなかったんです。

ずっと俯瞰で物語を見てる感じで、物語との心の距離が縮まらないというか。

蛇足ですが、上記のことから宮崎駿という人は子育てにそれほど積極的に関わることがなかったのだろうなぁと感じました。
我が子の成長はじっくりじわじわですが、よその子の成長はショートカットして感じますもんね。

それだけアニメーション制作に時間と心血を注いだからこそ、世界に名を馳せたのでしょう。
これは勝手な想像ですけど。


なぜ「千と千尋の神隠し」を持ち出したかというと、今作から「千と千尋の神隠し」へのアンチテーゼを感じたから。

九太(主人公)の9歳から17歳までを描いてるので、きちんと成長物語として成立してるんです。
宮崎駿引退というタイミングもあっての拡大解釈かとも思うので、これもまた勝手な想像ではありますけど。


“親子愛”というテーマが軸ではあるんでしょうが、個人的にはそこよりも“成長(思春期)”に伴うアレコレに感情移入しました。

悪役ということでもないんですが、九太(主人公)と敵対することになるキャラクターが、いわゆるダークサイドに堕ちていくわけですが、表向きはダークサイドに堕ちそうにない境遇。
経済的に困窮してるとか、壮絶なイジメに遭ってるとか、心を病むようなエピソードがあるとか、そんなダークサイドに堕ちるなりの分かりやすい理由はありません。

父親は街の誰もが認める立派な地位のある立派な人物で、仲の良い弟もいて、もちろん家も立派なお金持ち。
かと言って、親との関係がギスギスしてるでもないし、恵まれているが故の反抗心が起こるというでもなく、自分と周りに対する違和感からじわりじわりと心の闇が広がっていき、決定的な出来事でダークサイドに堕ちます。

物語の冒頭で、親を亡くした主人公は、心無い親戚に引き取られるところを拒絶し、自分を取り巻く全てに絶望し、心に闇を抱えてバケモノ界(渋天街)へいざなわれます。

終盤、九太が彼をダークサイドから引き揚げる際に、自分も同じだと言います。
九太と青年になって知り合った女の子も同じようなことを言います。

思春期の多感な成長期においては、劣悪でも無い恵まれた環境であろうと、立派な親がいようと、誰もが心に闇を抱えていて、そこに堕ちてしまう可能性は誰にでもある。


ダークサイドに堕ちた彼は、ここ数年でメディアを騒がせることの多い理解しがたい“少年犯罪”を連想させます。

そんな犯罪を起こしてしまうぐらい、心に大きな闇を抱えてしまい、耳を疑うような犯罪を起こしてしまう可能性は誰にでもあって、そこから救い上げられる人は、同じ闇を抱える、同じ境遇での苦しみを知る人でしかないということ。

メディアできれいごとを並べ立てる有識者でも、同じ目線に立てぬ教育者でもない、もしや親でもないのかも・・・。

そこに対する細田守監督としての答えがあります。
九太がダークサイドに堕ちなかった理由こそが答えです。
その答え自体は未完成な答えだと思いますし、理想論だと感じる部分もあるので、まだ僕の中でもしっくりきてません。

1回観たぐらいでは、全ての消化吸収できてませんし、親と子の関係が一筋縄でいかないことは自分自身の思春期の頃を思い返すと容易に想像できます。

そういう部分での問題提起みたいなものが、頭の中で明確な形にならぬまま余韻を引き摺るので、単純に「面白かった~♪」とはならないし、誰もが面白いと感じるでもないと思います。


個人的には「時をかける少女」から細田守監督作品を観続けてきて、監督の作品として、大きな1歩になる作品だと思います。

劇場公開時に2度観ることは叶わなかったので、DVDでまた観ます。


世間というよりも、ビジネスな部分での大人たちから“宮崎駿引退後の重責を担う”みたいな期待をかけられることに伴うプレッシャーは、想像の域をゆうに超えて想像できぬほどに大きいと思うんですね。

それによって、本来自分が作りたいモノが作れないような環境が周りから固められてしまうことが怖い。
今後、無理なく自分の思うような作品作りが出来ることを願うばかりです。